客車

2017年8月26日 (土)

リニア・鉄道館へ行きました 2

昨日に続き、蒸気動車ホジ6014です。

トルペード式ベンチレータ
R601420

別角度
R601411_2

車体の詳細は、明治村時代にたくさん撮ったんですが、まだスキャンしていないので、今回は、ここで撮ったものだけ。

狭くて暗くて撮影には不向きですね。
R601414

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R601413_2

R601416

R601417

台枠も暗くて見にくいですが、一応
R601418

R601419

台枠は特異な構造で、アングル組立の魚腹形の側ハリに、チャンネル材の横ハリで井桁を組んだものが主たる構造物で、中ハリは木製で車端圧縮にはこれで対処するようです。

今回写真は以上ですが、明治村時代の物もいずれスキャンして載せようと思います。

次回はケ90です。

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2017年8月25日 (金)

リニア・鉄道館へ行きました 1

昨日、青春18キップを使って、名古屋のリニア・鉄道館へ行ってきました。

先ず最初に驚いたのは、その場所。

名古屋港の南端、金城ふ頭というところにあります。
すぐ横は海、2011年3月11日東北地方太平洋沖地震の大津波の映像が目に浮かび、恐ろしくなりました。
全ての車両は地平上で、ケ90その他は露天展示です。
南海トラフで大地震が起こると言われているのに、貴重な保存物が心配になりました。

展示車両は新幹線等の新しいものを大事にして、古い車両は奥に突っ込まれて妻面だけしか見られない状態になっています。

まぁ、私的にはそれらも新しくてほとんど興味がわかないものばかりですが・・・

特に古いものは一応メインの展示場に置かれています。

ここで保存されている車両で、今回私が興味を持って見たのはたったの5両ですねぇ。

最初は、蒸気動車ホジ6014。
明治村に居たもので、明治村ではキハ6401と表示されていましたね。

ここでの展示で非常に特徴的なのは、屋内展示になったことと、2階から屋上が見られることです。

では、写真です。
R60141

あっはっは!、端バリではなくバッファを赤塗してる!。
馬鹿ですねぇ、学芸員は居ないのでしょうか?
明治村に比べるとランプが増えているくらいでしょうか。

R60142

反対側は光線状態が悪くて真っ暗です。
どういう照明設計をしてるのか、これではだめですねぇ。

2階からの眺め。
R60143

初めて見る光景です。

では、2階からのアップです。
R601410

煙突は、カーブで横に動くので、雨除けのツバ付き。
元々は煙突に汽笛がありました。

その後ろから
R60149

煙突の後ろのドームは安全弁のベンチレータです。

その後ろ
R60148

左右に並んでいるのは、後部の運転台からレギュレータを操作するためのワイヤの引き込み口です。
その前の物は汽笛のように思いますが、このような形状は知りません、これも後部から操作できるよう担っています。

その後ろ、車体中央より少し前です
R60147

ワイヤの中間受けです、現物はここともう1か所のみですが、元々は5か所ありました。
その横はランプですが、本来は円筒状のカバーに入れてありますが、復元時には撤去されていて、復元で何もわからず、ランプをむき出しで元の収納場所に突っ込んだまま防水処理をしたようです。

さらに後ろ、最後のワイヤの受けです。
R60146

最後部
R60145

ちょっと分かりにくいですが、左右にレギュレータのワイヤ引き込み部、
中央に汽笛のクランクがあります。

別角度
R60144

続きは次回です。

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2017年2月 9日 (木)

全盛期の山陽鉄道 8

 36年4月4日のこの事故は、結局関西鉄道の職員が1名亡くなったのにも関わらず、前述のように鉄道時報以外の記録には見られないのですが、山陽鉄道は3か月後の7月1日に時刻改正を行い、日本最速を誇った最急行は少し遅くなってしまいました。
最急行、305,318列車は、ボギー7両から、6両に減車され、上郡、笠岡、徳山、長府を通過駅にしたうえで、下関-神戸間が11時間31分になりました。

 事故の原因は高速運転ではなく、万富駅のポイント及び場内信号機の転換不良だと思われますが、現場サイドの反対とか、経済や政治的な理由があったのかどうか分かりませんが、単線区間も多く、タブレットも採用前の状態で、やはり少し無理があったのかも知れませんね。

 ダイヤ的には、その改正の7か月後、日露戦争が勃発し、37年2月17日に戦時輸送に切り替える時刻改正がありました。
急行列車は4本から2本に減り、ダイヤは平行ダイヤと呼んでも良いくらいの物で、追い越しが一切ない、網の目状のダイヤとなりました。
この改正によって最急行は普通の急行になりましたが、上記のように追い越しのないダイヤなので下関-神戸間の所要時間は、なんと23時間26分になってしまいました。

 戦争の輸送状況により何度か時刻改正を繰り返しましたが、38年9月のポーツマス条約によって日露戦争は終結し、10月28日から軍隊の凱旋輸送が始まり、39年4月16日に戦時体制が終わって、通常状態に戻りましたが、最急行は急行の名前のままで、下関-神戸間は13時間29分と戦前には遠く及ばない時間に設定されました。

山陽鉄道はその39年12月1日に国有化されてしまって終焉を迎えます。

鉄道史料151号の記事は素晴らしくて、36年7月1日改正の機関車の運用表が掲載されています。
 それによると、当時、山陽鉄道の本線の機関庫は、兵庫、姫路、岡山、糸崎、広島、柳井津、三田尻、下関の8庫です。
 急行列車は、兵庫庫が兵庫-岡山、岡山庫は岡山‐糸崎、広島庫は糸崎‐広島、これが瀬野八ですね、そして三田尻庫は広島-三田尻、下関庫が三田尻-下関を担当しました。
瀬野八では機関車の運用がダブっていないので、補機ではなく、機関車を付け替えたのではないかと思われます、ただし、運用表には機関車の形式や両数が書かれていないので、重連運用もあったかもしれませんね。

 鉄道史料のこの記事には、他にも客車の運用や列車編成等もあり、これが載っている151号は、山陽鉄道に興味がある方は、ぜひ購入されることをお勧めいたします。

最後は長々とした文だけになってしまいましたが、今回のテーマはここまでとします。

山陽鉄道についてはまだまだ資料もあり、今後も追及していきたいと思います。

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2017年2月 7日 (火)

全盛期の山陽鉄道 7

 全盛期の山陽鉄道 4の編成表で、蓄電池車を除いて郵便車を1両目として、2両目と4両目は3等車です。

 ここから後ろは、鉄道時報の記事でも大した記述は無いので、廃車になるほどの被害ではないように思いますので欠番には頼れませんね。

 3等車は種類が多くて特定が難しいですねぇ。
まぁ、独断と偏見で、私なりに形式を特定していこうと思います。
 山陽鉄道を代表する列車なので、3軸ボギー車を使ってると思いますが、36年初頭で3軸ボギーの3等車といえば、この3種類だけなんです。
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 これはちょっと古いんですが、913-919の内で、これだけが3軸ボギーに改造されたものと思われます、これ以外は最後まで2軸ボギーだったようです。
 このシリーズで特筆すべきは、中央部の幅広ロングシート状の物、これはなんと!お座敷だったようです。
たった1両なのと、31年製でちょっと古いのとで、この列車に使われた可能性は低いと思われますが、可能性は無いとはいえませんね。

 この写真は撮影者不明です。
 昭和29年まで国鉄に残った元ホハ8401ですが、実は「全盛期の山陽鉄道 1」で紹介した、簡易寝台付き3等車の最後の姿なんです。大体の外観は同様と思われます。
9821

もう1枚、やはりホハ8400形、番号は不明です。
8400l

 これは34年製、下関までの全通年の完成で、両数も5両で、この編成に2両使うと上り下りで4両使用で予備車1両と言う事で、可能性は高いと思います
220_2
 これは翌5年製造ですが1両です、予備車を神戸と下関に置くために予備を増やしたのか、単なる増備か・・・
 事故の時に郵便車にのしかかられたので、廃車になった車の代替?、1年も経ってるのでそれはないね。
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 3両目は2,3等合造車です。
 これは36年現在これしかありません。
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 4両目は上記の3等車

 5両目は食堂付き1等車、これも1形式のみです。
 山陽鉄道最初の食堂車、ってことは日本最初の食堂車はこの車なんですが、昼行のこの列車の食堂は1等との合造で、他は1等寝台との合造車ばかりがしばらく増備されました。後に他の等級との合造が出来ましたが、この時点で寝台以外と合造の食堂車はこれが唯一だったんです。
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 6両目は2等車、36年当時、3軸ボギー車は4形式ありますが、数の形式のみは34年製で4両あり、他は30~32年の製造です。
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いよいよ最後は3等緩急車、36年当時は、これのみです。
226
これではないのですが、少し後の製造、元ホハフ9670号。
8805l

蓄電池車と郵便車は欠番から推察し、それ以外は34年製造の物を主として選定してみました。これで合っているかどうかは分かりませんが、皆さんも想像してみてください。

貨物列車の方はさっぱり分かりませんので省略します。

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2017年2月 5日 (日)

全盛期の山陽鉄道 6

蓄電池車に続くのは郵便車、これも大破したので、廃車になったと思われます。
チクの例にならい、欠番を探すと、885~890の連番で889が抜けているというものがありました。
151
これは2軸ボギーですねぇ。
 山陽鉄道では少数派ですが、事故の当時は1両を除き全部2軸ボギーでした、それが、44年版の形式図「客車略図」では、この図を除いて他は全部3軸ボギーになっていて、同じ番号が3軸ボギーになっている物も多いので、積極的に3軸ボギーに履き換えたことが分かります。

この車は、山陽鉄道形式図では上記の図に番号が書かれていたものですが、3軸ボギーにに換装されています。239_2
36年ころの郵便車はほとんどが2軸ボギーなので、結局事故車と思われるものは2軸ボギーの889号だと推測するんですがいかがでしょう。

ここからちょっと脱線するんですが、この図のデッキ上部に角のように突き出している物があります。
 これは走行中に郵便物の受け渡しをする装置の車両側の装置で、官鉄と山陽鉄道のみで、明治31年からテストが始まり、42年に方式が統一されて全国に広がり、昭和7年ころまで行われていたようです。

山陽鉄道では、33年頃から実用していて、それの説明図です。郵便車の詳細も分かります。
デッキへの取付、車両の先端左側、点対称で2台付きます。
A
フックの詳細
B
取り降ろし時。車両側のフックに郵便物を付けたリングを引っ掛けたものを、地上側の受取柱で受け取る。右側の柱の図は横から見たとこ。
車両側のフック、車端から見たもので、向って左は反対側の車端。
フックは通常は内側にたたまれていて、使用時に展開する。デッキの柱は、片側のみ
A_3

車両への搭載時、地上の引渡柱先端に引っ掛けた郵便物を車両側のフックで引っ掛ける。
A_2
柱詳細
Photo
地上側の柱は、進行方向左側に、受取柱を設置して、10m程度進行したところに引渡柱を設置する。

この装置を設置した場所では、徐行する必要があると思いますが、万富駅では設置されていなかったようです。

この方式は国有後の42年に、吉田式と呼ばれる方式に変更されて、全国に普及しました。

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2017年2月 3日 (金)

全盛期の山陽鉄道 5

山陽鉄道の事故列車、機関車に続いて客車です。

機関車の次は蓄電池車。
山陽鉄道では、列車の電灯化が盛んで、ボギー車の編成は全部電灯化されていたようです、電源供給は、当初は小型の有蓋車に石油発動機と発電機を積んだものと、蓄電池を積んだものとを作ってテストを繰り返したが、発電式は故障が多く、34年には蓄電池方式に統一された。

蓄電池車は形式図を見ると意外に多くて、36年時点(事故以降)で34両も居ります。
 そして、特異な特徴として2軸ボギー台車を一台固定して2軸車にしたものがあります。そして、手ブレーキのみを装備したものと、それに加えて真空ブレーキを備えたものがあります。
真空ブレーキ付きは25両あり、高速列車にはこれを使用したと思われますね。
 事故では大破したので、おそらく廃車にしたと思われ、当時の番号で欠番があれば、それが事故車となりますね。
 当時の蓄電池車の番号、313-316、317、318-324、325、326-338、339、340、354355、356欠、357361585586です、下線は真空ブレーキ無しです。
この中で、番号が一つ飛んでるのは356号だけのようです、後ろの方は番号が飛んでるので、それらも考えられるので、単に可能性があるという程度です。

山陽鉄道の蓄電池車の全貌です。

国有鉄道100年史第4巻から、番号等は不明です。
Photo

 番号は見えませんが、側板手前に書かれているのは「蓄電車第四号」と書かれているように見えます、真空ブレーキを備え、軸受は普通の2軸車と同様のようです、妻には桟板があり、取っ手が見えるので貫通扉になっているようです。端部の屋上には何かあるようですが、よくわかりません。
 蓄電池車が313号から始まったとすれば316号と言う事になるかもしれません。
それの形式図。明治44年、客車略図から、形式チク4500です。
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真空ブレーキ付きで、ホイールベースも長く、高速向きと思います。

次は最も有名な写真、214形585号です。車両の80年から、形式チク4525です。
585450
兵庫工場製で、同じく兵庫工場製のミッドランドタイプの2軸ボギー台車を固定して使っているようです。
全長の割にホイールベースが短く、高速では蛇行動を起こしやすいように思いますが、手ブレーキのみで、高速列車には使ってなかったと思われます。写真では屋上に何か見えますが、普通のランプカバーより大分低い「何か」が付いています。

写真は上記2枚だけで、ここからは形式図のみです。
形式チク4530です。これは4500と同様真空ブレーキ付きです。真空ブレーキ付きは、4500とこの4530だけです。兵庫工場製と書かれていますが、山陽鉄道の記録ではオールドベリー製となっています。
451
形式チク4532です。4525と同様ですが、屋根はRです。
452
形式チク4534です。最後のグループで、事故以降の43年にに作られたようです。
453
蓄電池車は以上です。
今回の事故車は、356号、後の4500か4530になったものと同様と思います。

他の客車は次回ですが、さらっと済まそうかと思います。

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2017年2月 1日 (水)

全盛期の山陽鉄道 4

今回取り上げた事故の記録で、私のような者にとって重要なのは、列車の編成が書かれていると言う事ですね。
それをまとめるとこのようになります。
Photo
 斜線の所は記事により、事故によって破損したと思われる部分です。
正面衝突と言っても、走ってたのは片方だけで、大分減速も出来ていたと思われますね、それでも炭水車や蓄電池車、郵便車はかなりの被害を受けています。

 下り最急行の機関車92号は33年に作られて3年しか経っていない4-4-0の16形、後の形式6120形6124号です。
 列車は蓄電池車+6輪ボギー車7両、これで最高速度97km/hを出せるんですから、4-4-0って意外に強力ですねぇ。

そして、ぶつかられた貨物列車は、機関車95号、なんと、この機関車も305列車の物と同型、後の6126号です、貨車は16両+石炭積みのトが3両とのことです。実際にこのように並んでいたかどうかはわかりません。

これらの車両で分かるものをピックアップしてみましょう。
先ず機関車、同型の89号です。
568989wicollection_l

真横は93号、これは、後に改造されて6050形となりましたが、この写真は改造前
569393wicollection_l

 この機関車は、明治33(1900)年アメリカのスケネクタディで製作されたもので、8両が作られました。当時日本で最大級の5フィート(1524mm)の動輪を持ち、同じ軸配置を持つ当時の日本の機関車では、関西鉄道の6500の単式時に次ぐ最高性能の機関車で、6500の複式時はこの機関車よりかなり引張力が小さいので、実質的に当時の最高性能の機関車と呼んで差支えありません。
 官鉄の6400はこれより大きく見えますが、ボイラの実質的な大きさはほとんど変わらず、この機関車は使用圧力が高い分、高性能になっています。
 より大型の6600や後の制式機6700よりもシリンダ引張力が大きいのは意外ですね。

 私は、この機関車と今回紹介した事故の件で、ちょっと思うことがあります。

 この事故の年に、この機関車を元に兵庫工場で山陽鉄道初の完全新製として17形が4両作られました、後の6100形です。
6110l

 機関車本体は6120と比べて、煙突と運転室の窓くらいしか違いがありませんが、炭水車は形が違います。
この時すでに前照灯の受けに特徴が表れてますね。
この後、少し形態を変えてさらに4両製造されます。

 ここから私の想像なんですが・・・
正面衝突で16形2両が大きく破損したわけですが、機関車の数が減っていないので、今のように簡単に廃車にしたりせず、兵庫工場で復旧工事をしたようです。
 破損の状態は、鉄道時報の記事でははっきりとはしませんが、双方とも前部デッキはかなり破損し、シリンダから前の台枠も破損したと思われ、先台車も大きく被害を受けたようです、92号は運転室や炭水車もかなり破損したようで、台枠後部も破損した可能性があります。
 兵庫工場ではこれらの個所を新製部品を作って復旧することになりますが、事故車の補修部品を余分に4両分(後に更に4両追加)製造し、その他の部品も4両分作って機関車を4両新製したんじゃないかと思うんですよ。という訳で、この事故が兵庫工場でこの後多くの機関車を新造するきっかけになったんじゃないかと思ったりするんです。

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2017年1月29日 (日)

全盛期の山陽鉄道 3

36年1月20日の時刻改正でスピードアップをした山陽鉄道は、わずか半年足らずの7月1日に再度の時刻改正をして、最急行は従来停車していた4駅を通過としたのに、下り11時間55分、上り11時間31分にスピードダウンし、さらに編成両数もボギー車7両から6両に減車されます。

わずかな期間に改正を行い、減車とスピードダウンをするというのは、この期間に速度が速すぎた等の何かトラブルがあったんではないかと考える事が出来ますが、鉄道史や年表等を見ても、特にトラブルの記述はなかったんです。
長船友則著「山陽鉄道物語」は山陽鉄道についての最高の研究書と言えると思いますが、長船氏も同書の中で「一体なにがあったのであろうか」と書かれています。

そこで登場したのが、鉄道史料148号の井原実氏の寄稿「山陽鉄道 明治36年1月20日 時刻改正」です。
この記事には、36年4月4日、万富駅における事故の詳細が記されています、出典は鉄道時報4月11日号

以下、そこから抜き書きします。

「山陽鉄道列車衝突事件」
 去る4日1時12分山陽鉄道線万富駅に於いて305列車(最急行)と110列車(貨物)と衝突したる事件あり。  -中略-

 客車は同日午前7時0分京都駅を発したる例の馬関直行の大急行列車にして、92号機関車を先頭とし次に機関車付属タンク車(石炭及び用水タンク車)、次に発電車、郵便車、3等車、2,3等混合車、3等車、1等車2等車、次にブレーキを付属せる3等車を後部とし居たり。
 大阪駅よりは吉原地方局長の一行も後部の2等車に乗り込み居たるが、同列車が京都を発し大阪に着すまでの間において、既に何か故障ありたる由にて、それがため大阪発時間は平常ならば午前9時20分に発すべきを約20分を遅発して、9時40分頃に発車したり。
 その後前記万富駅に至るまで差したる故障もなく、さすがに最急行のとなれば線路の屈曲せる個所即ちカーブの所にさしかかる度毎に、脱線せんかと思わるる許りに左右に振動したり。
 これは平素ならば良し最急行なればとて斯ることなき由なれども、時間遅れたるを以て其回復を計り、平素よりも幾分の速力を加えて馳行し居りたるためなりと。
 さて、右の下り列車が万富駅に近きたる際も、同駅は停車駅にあらざるを以て別に減速もせず進行し、しかも同駅の東方は線路屈曲し其間に山脈ありて山隠れとなり居れるを以て、十数町を隔てたる東方よりは同停車場を見透す能わず、加うるに其カーブの個所より停車場に向って幾分の勾配を以て低下せるを以て、列車がカーブを出でて停車場内近くに至りし際は下り坂のために最急行の速力に一層の惰力を加えて進行したるが常。

 停車場外に掲げある信号、無事を示し居たりしに、さらに4町許りを進行して場内に進みしに、場内の信号標は危険の信号を掲げ居るのみならず、
 上り線路即ち北方のプラットホームには昨今岡山兵庫駅間の不定期列車に使用せられ居る95号機関車が貨車16両と石炭を積載せるトロック3両を連ねて、同日午前11時40分岡山駅を発し12時40分万富駅に着し、最急行の下り列車の来着を待ちつついるを認めたり。
 然れども下り列車は尚前方にポイントありて、夫より上り列車の線路と行違いとなり南方プラットホームに沿いて急行するを普通とせるがゆえ、当時下り列車の運転士も上り列車の運転士も例の如く懸念せざりしに。

 下り列車はポイントの所に至りしに、これはそもそも如何に機関車は上り線路を直行し、停車中の貨車を真向に目がけて進行したりしより、下り列車の運転士柴野徳太郎氏はポイントの整理しあらずとは思いかけざることなれば大いに驚き、直ちに停車せしめんとてブレーキのハンドルに力を込めてエイヤとばかりに一廻し廻したれども、最大急行の速力なれば何かは以てたまるべき。
 上り列車の機関車に百雷の響きをなして衝突したれば、さしもに堅牢なる機関車前部のボギーは剥ぎ取らるる如く離され、厚さ3吋ある前部のデッキ其他の付属品は上下両列車とも微塵に壊されたり。
 かくて衝突の一刹那下り列車の機関車は其反動を以て後部に連結せる自己のタンク車に衝突したるを以てタンク車も破壊されて、鉄板破れ漏水は洪水の如く線路に溢れ、また山鉄線の機関運転視察として火夫と共に機関車に乗込居たる、関西鉄道亀山駅機関庫係員樋口尚賢(22)は、機関車とタンク車との間に挟まれ即死を遂げたり。
 而して次なる発電車も是亦微塵に壊され、郵便物を満載せる郵便車は、同じくその余響を以て同車の前方1間ばかりは全部破壊されたるのみか、郵便車の車底は悉皆微塵となり車輪は線路外に飛散し、しかも同車の後部に連結せる3等車の屋上に殆んど車底を載すほど崩れかかりたり、ただ不思議なるは常時郵便係員は都合6名なりしが、何れも中央の事務室にて執務中なりしも、同車の前後が郵便庫となり居りて柔らかき郵便物の弾力にて車の中央部を安全に保つを得たり。
 而して1等車の振動はさしたることなかりしも・・・    -中略-
 又一方衝突されたる上り貨車の機関車は、衝突の反動と共に機関車に付属せる前部のボギーは衝突の個所に破壊の儘置去りとなり、連結せる19両の貨車と共に後方に突き返され、是亦機関車の前部のデッキ其の他を破壊したるのみならず、醤油を積みたる貨車は・・・    -中略-
 上り95号機関車の運転士戸川久氏は、衝突の際反動により後退せし時、臨機の処置を以て成るべく反動のため後車の破壊を避けんとて、機関車のブレーキにより後退を中止せんとせしも能わざりしと。
 尚、同貨車後部のブレーキに執務し居たる車掌佐藤萬亀三郎氏は、車壁に面部を打ち当てて負傷したり。
 かくて衝突後下り列車の乗客は・・・   -後略

句読点と現代の文字に変更しましたが、明らかな間違い(ブレキー等)以外、文は元のままとしています。

要約しますと、36年4月4日、最急行305列車は京都を定時発車した後、トラブルのせいで大阪で20分延着、その後はトラブルもなく遅延解消に向けて通常より高速での運転を行っていた。
 一方単線のために、上り貨物列車は12:40に万富駅に到着後、交換のために下り305列車を待っていた。
 万富駅東方はブラインドカーブで下り勾配、しかも遠方信号は青、通過駅なので減速せずに駅に向かうと、場内信号が赤で、ポイントは切り替わってなかったが、時すでに遅し。
 ブレーキハンドルを回したとあるが、実際は真空ブレーキのエジェクタを操作して、さらに手ブレーキも廻したと思われる。
 上り貨物列車は停まっていたので、正面衝突とはいえ、死者は一人と奇跡のような事故で、郵便車の職員は車両の前後が大きく破壊されたのに中央部に居たため無事だった。
 最急行305列車の機関車は前部が大破して先台車は外れたようだ、炭水車は機関車に衝突して大きく破壊したようで、次の蓄電池車、文中には発電車とあるが、列車電灯初期に蓄電池と共に実験で作った発電車は、この時点で無くなっていた。蓄電池車は粉砕し、次の郵便車は機関車側が1.8m程度が破損し、後部は次の3等車に乗りかかるようになっていたようですが、乗りかかられた3等車の被害の記述はなし。後部に連結された1等車や食堂の食器が壊れたとかの様子が書かれているが、省略した。
 貨物110列車の方は、機関車前部は大破し、先台車も破壊した。
貨車は積み荷の醤油樽が破壊されてひどい状態、米や銅などを積載したものは、側壁が破損した。

 原因は、万富駅東側のポイントが切り替わっていなかった事と、遠方信号が青を現示していたことですね。
 いくら見通しが悪くても、遠方信号が赤なら、いくら急いでても、305列車は駅の手前で停止できます。
 貨物110列車は12:40に到着し、事故は1時12分で、305列車は遅れていて32分も時間があったのに、何らの防護処置も出来なかったのか謎ですね。

 死者も出て、列車同士の衝突という、これほどの事故が鉄道史に残っていないのが不思議ですね。

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2017年1月26日 (木)

全盛期の山陽鉄道 2

山陽鉄道、ここからが本題です。

明治34年、馬関(翌年下関と改称)まで開通し、神戸-下関間を全通させた山陽鉄道は、直後に時刻改正をし、最急行も下関まで到達しました。神戸-下関間の所要時間は12時間35分を要しましたが、当時は日本一の速さを誇ったものです。

その次に満を持した大きな時刻改正をするために35年12月24,26日に神戸-下関間で試運転を行いました。当時の新聞によると、神戸-下関間を11時間15分で運転する目的で、直線区間の最高速度は60マイル/h(96.6km/h)に達したそうです。

その試験結果を踏まえて、満を持して時刻改正したのが36年1月20日だったんです。

この時の改正の目玉は、最急行の高速化。
京都発の最急行の神戸-下関間の運転時間は、下りは11時間30分、上りは11時間20分となりました。

では、その内訳です、現在の普通列車を乗り継いでいった場合も併記します。
先ずは下り
Photo

上り
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 現在、快速等を使えばもっと早いのですが、できるだけ近い時間に出発する普通列車を最短で乗り継いでこのようになりました。思ったほどの差がありませんね。

上り広島‐糸崎間には、いわゆる瀬野八と呼ばれる難所があり、勾配用の機関車に付け替えますが、瀬野‐八本松10.6kmの区間で、22.6‰勾配に300mカーブが連続する区間を32分、19.9km/hで走破します、
 列車全体で驚くべきは、機関車を4回も交換して、交換駅の停車時間は最短6分と驚異的な交換時間、途中で給水はしないのか、他の停車時間も非常に短いです。
 また、この区間の大方はまだ単線であることも考慮に入れると、この運転時間を達成するのにどれほどの苦労があったかと想像します。

その、最も大変な状態の時に最急行が事故を起こしたんです。

以下、次回

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2017年1月23日 (月)

全盛期の山陽鉄道 1

このところ、更新が滞ってますねぇ。

年末ごろからちょっとはまっているテーマが「山陽鉄道」

鉄道史料148号に、井原実氏の寄稿「山陽鉄道 明治36年1月20日 時刻改正」、
そして、151号には、「山陽鉄道 明治36年7月1日 時刻改正」が掲載されました。

この期間を見て「お!!!」と思った人は少ないでしょうねぇ。
けど、この36年1月20日から7月1日までが、正に山陽鉄道の全盛期と呼んでいい時代なんですよ。

21年の開業当初から本州発の列車トイレを設置し、早々に全車両(貨車は貫通管のみ)に真空ブレーキの装備をし、30年からの列車電灯採用、33年には日本初の蒸気暖房と、次々と新機軸を取り入れてきた山陽鉄道は、
運用面でも27年から急行列車を設定しました。28年には官鉄の京都まで乗り入れを果たし、32年三田尻(現防府)まで開通の時点で、後の特急に相当する「最急行」が設定され、同じ32年には日本初で国産の食堂車を採用し、翌33年に最初の寝台車を投入しました。
官鉄に比べてはるかに安い料金の簡易式の二等寝台や、座席料金のままで利用できる三等寝台(と称する)、それに座敷のある客車も出てきました、もちろんこれらも日本最初です。
明治34年に馬関(現下関)まで全通して当初の目的を果たし、充実した日々が始まりました。

初回は、これらの車両たちを紹介しようと思います。

32年、最初の食堂車、一等室と合造です。国有後の形式ホイシ9180
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食堂は、当初は定員10人の大テーブルだったものを13人の個別席に改造しています。
左は一等室、今で言うロングシートで、3人おきにひじ掛けがある。

車内
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左は製造当初の大テーブルの食堂、右は別の形式ですが、一等室は同様と思います。

34年製、一等寝台食堂車、国有後の形式イネシ9080、山陽鉄道案内(復刻)よりL

一等寝台食堂車の構造図。005_022_p020l
右から調理室、食堂(定員8)、一等寝室、車端上部は便所、下部は乗務員室、物置の順です。
以前から問題とされる一等寝室の表示方法は、右半分が夜、上側は上段寝台、下側は下段寝台、左半分が昼の状態です。

室内、どちらの写真も、片側が夜で、反対側は昼の状態。
Photo

36年製、二等寝台車、国有後の形式ロネ9130
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二等寝台車は2形式8両のみ。
これの椅子の構造は、この資料「帝国鉄道協会会報11巻」に略図があり、研究者の間で有名ですが、これ以外何も情報がなくてよくわからなかったんです。
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図は、上段下段共にこのような構造と書かれています。

ところが先日、私は所有の書籍等をしらみつぶしに探していたところ、写真が見つかったんです。
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下段は向かって右側が夜の状態、上段は左が夜の状態です。
下段はまさに図の状態ですね、上段は向こうの方ですが、舟型寝台の上に何かあります、これは図のような背もたれの様にも見えます。

そこで、形式図を元に、実際の寸法を推定して図を書いてみました。
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客室部分に13組の寝台を書いたところ、一人分の長さが1650mm程度確保できることが分かりました。これなら、当時の日本人の身長なら問題なさそうですね。
上段は形式図の断面から高さを測ったところ、下段と同じもので成り立つことが分かりました。

36年製、三等寝台と称されるもの、資料はこの形式図のみ
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鉄道時報では、背もたれを引き出すと、60度程度に傾き、枕も引き出せると書いています。
これは、一種のリクライニングシートのようになるのかもしれません、特別料金を取らないというのは良心的ですねぇ。
ちなみに、一般の三等車の写真を載せておきます。
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時刻改正関係等、続きは次回。

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