鉄道史よもやま話

2013年11月 9日 (土)

鉄道史よもやま話 2

明治以降、日本の鉄道で活躍したお雇い外国人は多くを数えますが、有名どころを並べると、

先ず、最初に浮かぶのはゲージの選定から、全体の構想まで、良かれ悪しかれ日本の鉄道の基本を作り上げたエドモンド・モレル、日本に赴任して、開業前に夭逝してしまいますが、彼なくしては鉄道建設の実現も危ぶまれた事だと言えます。

モレルの後任のボイル、汽車監察方の東のクリスティ、西のスミス、それからライト、東のF・H・トレビシックに西のR・F・トレビシック、これらの人々は全部イギリス人で、日本の鉄道の黎明期から官設鉄道に従事しましたが、

北海道はアメリカ人のクロフォードによるアメリカ流、

九州はドイツ人のルムショッテルによるドイツ流と、当時の世界を代表する工業国の優れた技術者が来日して日本の鉄道を作っていきました。

そのようなわけで、当時の世界の先進国の機関車達が集う状況が日本にあったわけで、それが現在、古典機関車を楽しむ者として、アメリカ、イギリス、ドイツその他の国々の機関車が同一線路上に走る面白さを味わえることとなりました。

私のような車両に重点を置くものとしては、汽車監察方の存在が大きく、特に国産第1号の機関車を作り、神戸工場で多くの機関車を作ったR・F・トレビシック(兄)が非常に有名ですね。

では、汽車監察方では彼が最も有能だったのでしょうか?

もちろんトレビシックは非常に有能ではありますが、私はそれほど目立たないW・M・スミスと言う人を最もすごい仕事をした人と考えています。

スミスは明治7年に来日して、神戸工場の汽車監察方になり、11年には解雇されてしまう。

たった4年間日本で活躍しただけですが、この間の彼の業績には目を見張る。先ず最初に行ったのは、日本が独自で車両の整備や製造が出来るよう、神戸、新橋両工場の計画と工作機械の調達、これはあまり語られることはないが非常に大きな業績と思う。

着任早々、設備も完全ではないであろう神戸工場で、日本最初の機関車の大改造を行っている。これは明治10年2月の京阪神間の開業式に備えて、Kitson製のC型テンダ機関車を2-B型テンダ機関車にするもので、外観を大きく変える大工事です。この工事の詳細については、現在製作中の機関車の記事の冒頭で書いているので参照くださいhttp://kraken.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/70105100-1-4968.html

この内容を見ても分かるように、設計を生業とする私が現代の目で見ても非常に巧妙で、設備のまだ整っていない工場での作業も考慮した素晴らしい設計です。

この後、5130のテンダーを6両製作したり、国産で初の2軸と2軸ボギーの客車を製作したり、八面六臂と言うべき活躍をしました。

当時の未熟な日本人技術者に、現場で図面を見せながら「なぜこのようになっているか」と言う説明をしながら、工員と一緒になって作業をしながら技術を教えたと伝わっています。こういう事は現在でも見習うべきことですね。

恐らく性格上の問題で、当時の日本側の最高責任者の井上勝から嫌われて契約を延長することなく帰ってしまいました。そのような人なので、帰国してからの活躍も素晴らしく、有名な複式機関車の設計など、日本に関わったイギリス人技術者で、唯一イギリスの鉄道史に名を残す人となっています。

新橋工場のクリスティは鉄道史にはほとんど名を残すことがなく、初期の機関車の状況を現在に伝える「クリスティ報告」が有名なくらいです。

スミスの後任として、西の汽車監察方になったライトは、10年も神戸工場に君臨したにも関わらず、有名なのは煙突先端の形を変えたくらい、あとは2-Bタンク機関車をテンダを作って2-Bテンダ機関車(後の5490)に改造したくらい、これなどスミスの改造に比べたら全然レベルの低い物です。このライトの煙突、好き嫌いはあるでしょうが、私は嫌いです。

工場のトップがスティタスシンボルで煙突を改造するのはイギリスでもよくある事で、それぞれ独特の形が有るのですが、提灯のようなキャップは日本では他に例がありません。

その在任中、東ではF・H・トレビシック(弟)、その後12年経って兄のR・F・トレビシックが西に着任します。

二人、特に兄が作った機関車については次回とします。

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2013年10月30日 (水)

鉄道史よもやま話 1

日ごろお世話になっている、白馬のMさんから、実物の鉄道の話を何でもいいから書け!と言われて、この項を始めますが何を書いたらいいのやら・・・・

まぁ最初なので、鉄道の最初の頃のお話を一席。

イギリスの産業革命で我々に関係が深いのはもちろん蒸気機関であるが、元々はニューコメンが発明した、単なるシリンダーとピストンの前後運動のもので、蒸気でピストンを押した後、シリンダーを水で冷却して蒸気を凝結してピストンを戻し、また蒸気を送り込むと言う物で、蒸気のほとんどは冷えたシリンダーとピストンを温めるのに費やされるという非常に効率の悪い物であった。

それを改良して、シリンダーと別に凝縮器を作って、そちらで冷却するようにして、シリンダーが冷えないように改良したのが、かの有名なジェームズ・ワットである。

彼はさらに、このピストンの前後動をクランクによる回転運動に変える機構を開発した。これはのちの機関車に通じる大きな発明で、この後リチャード・トレビシックが世界初の線路上を走行する車両を作る元になったと考えて過言ではない。

トレビシックの有名なペナダレン号は、鉄道馬車用の折れやすい鋳鉄のレールの上を走行したので、重量に耐えられずレールの折損が多発して実用に耐えられなかった。車両の問題と言うよりインフラの問題であるが、普及するには早すぎたと言える。

その後、10年ほどの後、ジョージ・スチーブンソンら多くの技術者が時代の要請により、競って機関車の研究を始め、ストックトン・ダーリントン鉄道の開業を経て、1929年の有名なレインヒルトライアルで、ジョージ、ロバート・スチーブンソン親子によるロケット号が他を圧倒して優勝した。

この「ロケット」は従来の機関車とは大きく構造が違い、初めての煙管ボイラー、シリンダーの排気による通風の強化、シリンダーと動輪の関係等、現在の蒸気機関車に通じるさまざまな発明がちりばめられ、ジョージ・スチーブンソンを機関車の発明者と呼ぶ者も居る所以である。ただし「ロケット」の設計は実質的に息子のロバートによるのでおかしいのではあるが、機関車以外の多くの功績も含め、ジョージ・スチーブンソンの方が有名ではある。

我々機関車の研究にいそしむ者としては親子で作った機関車工場「Robert Stephenson & Company」がなじみ深い。

なお、中庸に書いた、リチャード・トレビシックの息子は当時のイギリスの大鉄道、LNWRの工場で、イギリスきっての大工場クルー工場でCMEとして活躍し、その息子、フランシス・ヘンリー・トレビシックと、リチャード・フランシス・トレビシックはクルー工場で修業した後、日本へ来て、日本の鉄道史に燦然と輝く多くの足跡を残している。

・・・・どうもこういう文を書くと固くなってしまうねぇ、ほとんどアドリブで書いてるので間違い等も多いかと思うので、皆さんのダメ出しをお願いします。

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