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2017年2月

2017年2月 9日 (木)

全盛期の山陽鉄道 8

 36年4月4日のこの事故は、結局関西鉄道の職員が1名亡くなったのにも関わらず、前述のように鉄道時報以外の記録には見られないのですが、山陽鉄道は3か月後の7月1日に時刻改正を行い、日本最速を誇った最急行は少し遅くなってしまいました。
最急行、305,318列車は、ボギー7両から、6両に減車され、上郡、笠岡、徳山、長府を通過駅にしたうえで、下関-神戸間が11時間31分になりました。

 事故の原因は高速運転ではなく、万富駅のポイント及び場内信号機の転換不良だと思われますが、現場サイドの反対とか、経済や政治的な理由があったのかどうか分かりませんが、単線区間も多く、タブレットも採用前の状態で、やはり少し無理があったのかも知れませんね。

 ダイヤ的には、その改正の7か月後、日露戦争が勃発し、37年2月17日に戦時輸送に切り替える時刻改正がありました。
急行列車は4本から2本に減り、ダイヤは平行ダイヤと呼んでも良いくらいの物で、追い越しが一切ない、網の目状のダイヤとなりました。
この改正によって最急行は普通の急行になりましたが、上記のように追い越しのないダイヤなので下関-神戸間の所要時間は、なんと23時間26分になってしまいました。

 戦争の輸送状況により何度か時刻改正を繰り返しましたが、38年9月のポーツマス条約によって日露戦争は終結し、10月28日から軍隊の凱旋輸送が始まり、39年4月16日に戦時体制が終わって、通常状態に戻りましたが、最急行は急行の名前のままで、下関-神戸間は13時間29分と戦前には遠く及ばない時間に設定されました。

山陽鉄道はその39年12月1日に国有化されてしまって終焉を迎えます。

鉄道史料151号の記事は素晴らしくて、36年7月1日改正の機関車の運用表が掲載されています。
 それによると、当時、山陽鉄道の本線の機関庫は、兵庫、姫路、岡山、糸崎、広島、柳井津、三田尻、下関の8庫です。
 急行列車は、兵庫庫が兵庫-岡山、岡山庫は岡山‐糸崎、広島庫は糸崎‐広島、これが瀬野八ですね、そして三田尻庫は広島-三田尻、下関庫が三田尻-下関を担当しました。
瀬野八では機関車の運用がダブっていないので、補機ではなく、機関車を付け替えたのではないかと思われます、ただし、運用表には機関車の形式や両数が書かれていないので、重連運用もあったかもしれませんね。

 鉄道史料のこの記事には、他にも客車の運用や列車編成等もあり、これが載っている151号は、山陽鉄道に興味がある方は、ぜひ購入されることをお勧めいたします。

最後は長々とした文だけになってしまいましたが、今回のテーマはここまでとします。

山陽鉄道についてはまだまだ資料もあり、今後も追及していきたいと思います。

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2017年2月 7日 (火)

全盛期の山陽鉄道 7

 全盛期の山陽鉄道 4の編成表で、蓄電池車を除いて郵便車を1両目として、2両目と4両目は3等車です。

 ここから後ろは、鉄道時報の記事でも大した記述は無いので、廃車になるほどの被害ではないように思いますので欠番には頼れませんね。

 3等車は種類が多くて特定が難しいですねぇ。
まぁ、独断と偏見で、私なりに形式を特定していこうと思います。
 山陽鉄道を代表する列車なので、3軸ボギー車を使ってると思いますが、36年初頭で3軸ボギーの3等車といえば、この3種類だけなんです。
219
 これはちょっと古いんですが、913-919の内で、これだけが3軸ボギーに改造されたものと思われます、これ以外は最後まで2軸ボギーだったようです。
 このシリーズで特筆すべきは、中央部の幅広ロングシート状の物、これはなんと!お座敷だったようです。
たった1両なのと、31年製でちょっと古いのとで、この列車に使われた可能性は低いと思われますが、可能性は無いとはいえませんね。

 この写真は撮影者不明です。
 昭和29年まで国鉄に残った元ホハ8401ですが、実は「全盛期の山陽鉄道 1」で紹介した、簡易寝台付き3等車の最後の姿なんです。大体の外観は同様と思われます。
9821

もう1枚、やはりホハ8400形、番号は不明です。
8400l

 これは34年製、下関までの全通年の完成で、両数も5両で、この編成に2両使うと上り下りで4両使用で予備車1両と言う事で、可能性は高いと思います
220_2
 これは翌5年製造ですが1両です、予備車を神戸と下関に置くために予備を増やしたのか、単なる増備か・・・
 事故の時に郵便車にのしかかられたので、廃車になった車の代替?、1年も経ってるのでそれはないね。
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 3両目は2,3等合造車です。
 これは36年現在これしかありません。
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 4両目は上記の3等車

 5両目は食堂付き1等車、これも1形式のみです。
 山陽鉄道最初の食堂車、ってことは日本最初の食堂車はこの車なんですが、昼行のこの列車の食堂は1等との合造で、他は1等寝台との合造車ばかりがしばらく増備されました。後に他の等級との合造が出来ましたが、この時点で寝台以外と合造の食堂車はこれが唯一だったんです。
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 6両目は2等車、36年当時、3軸ボギー車は4形式ありますが、数の形式のみは34年製で4両あり、他は30~32年の製造です。
206

いよいよ最後は3等緩急車、36年当時は、これのみです。
226
これではないのですが、少し後の製造、元ホハフ9670号。
8805l

蓄電池車と郵便車は欠番から推察し、それ以外は34年製造の物を主として選定してみました。これで合っているかどうかは分かりませんが、皆さんも想像してみてください。

貨物列車の方はさっぱり分かりませんので省略します。

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2017年2月 5日 (日)

全盛期の山陽鉄道 6

蓄電池車に続くのは郵便車、これも大破したので、廃車になったと思われます。
チクの例にならい、欠番を探すと、885~890の連番で889が抜けているというものがありました。
151
これは2軸ボギーですねぇ。
 山陽鉄道では少数派ですが、事故の当時は1両を除き全部2軸ボギーでした、それが、44年版の形式図「客車略図」では、この図を除いて他は全部3軸ボギーになっていて、同じ番号が3軸ボギーになっている物も多いので、積極的に3軸ボギーに履き換えたことが分かります。

この車は、山陽鉄道形式図では上記の図に番号が書かれていたものですが、3軸ボギーにに換装されています。239_2
36年ころの郵便車はほとんどが2軸ボギーなので、結局事故車と思われるものは2軸ボギーの889号だと推測するんですがいかがでしょう。

ここからちょっと脱線するんですが、この図のデッキ上部に角のように突き出している物があります。
 これは走行中に郵便物の受け渡しをする装置の車両側の装置で、官鉄と山陽鉄道のみで、明治31年からテストが始まり、42年に方式が統一されて全国に広がり、昭和7年ころまで行われていたようです。

山陽鉄道では、33年頃から実用していて、それの説明図です。郵便車の詳細も分かります。
デッキへの取付、車両の先端左側、点対称で2台付きます。
A
フックの詳細
B
取り降ろし時。車両側のフックに郵便物を付けたリングを引っ掛けたものを、地上側の受取柱で受け取る。右側の柱の図は横から見たとこ。
車両側のフック、車端から見たもので、向って左は反対側の車端。
フックは通常は内側にたたまれていて、使用時に展開する。デッキの柱は、片側のみ
A_3

車両への搭載時、地上の引渡柱先端に引っ掛けた郵便物を車両側のフックで引っ掛ける。
A_2
柱詳細
Photo
地上側の柱は、進行方向左側に、受取柱を設置して、10m程度進行したところに引渡柱を設置する。

この装置を設置した場所では、徐行する必要があると思いますが、万富駅では設置されていなかったようです。

この方式は国有後の42年に、吉田式と呼ばれる方式に変更されて、全国に普及しました。

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2017年2月 3日 (金)

全盛期の山陽鉄道 5

山陽鉄道の事故列車、機関車に続いて客車です。

機関車の次は蓄電池車。
山陽鉄道では、列車の電灯化が盛んで、ボギー車の編成は全部電灯化されていたようです、電源供給は、当初は小型の有蓋車に石油発動機と発電機を積んだものと、蓄電池を積んだものとを作ってテストを繰り返したが、発電式は故障が多く、34年には蓄電池方式に統一された。

蓄電池車は形式図を見ると意外に多くて、36年時点(事故以降)で34両も居ります。
 そして、特異な特徴として2軸ボギー台車を一台固定して2軸車にしたものがあります。そして、手ブレーキのみを装備したものと、それに加えて真空ブレーキを備えたものがあります。
真空ブレーキ付きは25両あり、高速列車にはこれを使用したと思われますね。
 事故では大破したので、おそらく廃車にしたと思われ、当時の番号で欠番があれば、それが事故車となりますね。
 当時の蓄電池車の番号、313-316、317、318-324、325、326-338、339、340、354355、356欠、357361585586です、下線は真空ブレーキ無しです。
この中で、番号が一つ飛んでるのは356号だけのようです、後ろの方は番号が飛んでるので、それらも考えられるので、単に可能性があるという程度です。

山陽鉄道の蓄電池車の全貌です。

国有鉄道100年史第4巻から、番号等は不明です。
Photo

 番号は見えませんが、側板手前に書かれているのは「蓄電車第四号」と書かれているように見えます、真空ブレーキを備え、軸受は普通の2軸車と同様のようです、妻には桟板があり、取っ手が見えるので貫通扉になっているようです。端部の屋上には何かあるようですが、よくわかりません。
 蓄電池車が313号から始まったとすれば316号と言う事になるかもしれません。
それの形式図。明治44年、客車略図から、形式チク4500です。
449
真空ブレーキ付きで、ホイールベースも長く、高速向きと思います。

次は最も有名な写真、214形585号です。車両の80年から、形式チク4525です。
585450
兵庫工場製で、同じく兵庫工場製のミッドランドタイプの2軸ボギー台車を固定して使っているようです。
全長の割にホイールベースが短く、高速では蛇行動を起こしやすいように思いますが、手ブレーキのみで、高速列車には使ってなかったと思われます。写真では屋上に何か見えますが、普通のランプカバーより大分低い「何か」が付いています。

写真は上記2枚だけで、ここからは形式図のみです。
形式チク4530です。これは4500と同様真空ブレーキ付きです。真空ブレーキ付きは、4500とこの4530だけです。兵庫工場製と書かれていますが、山陽鉄道の記録ではオールドベリー製となっています。
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形式チク4532です。4525と同様ですが、屋根はRです。
452
形式チク4534です。最後のグループで、事故以降の43年にに作られたようです。
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蓄電池車は以上です。
今回の事故車は、356号、後の4500か4530になったものと同様と思います。

他の客車は次回ですが、さらっと済まそうかと思います。

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2017年2月 1日 (水)

全盛期の山陽鉄道 4

今回取り上げた事故の記録で、私のような者にとって重要なのは、列車の編成が書かれていると言う事ですね。
それをまとめるとこのようになります。
Photo
 斜線の所は記事により、事故によって破損したと思われる部分です。
正面衝突と言っても、走ってたのは片方だけで、大分減速も出来ていたと思われますね、それでも炭水車や蓄電池車、郵便車はかなりの被害を受けています。

 下り最急行の機関車92号は33年に作られて3年しか経っていない4-4-0の16形、後の形式6120形6124号です。
 列車は蓄電池車+6輪ボギー車7両、これで最高速度97km/hを出せるんですから、4-4-0って意外に強力ですねぇ。

そして、ぶつかられた貨物列車は、機関車95号、なんと、この機関車も305列車の物と同型、後の6126号です、貨車は16両+石炭積みのトが3両とのことです。実際にこのように並んでいたかどうかはわかりません。

これらの車両で分かるものをピックアップしてみましょう。
先ず機関車、同型の89号です。
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真横は93号、これは、後に改造されて6050形となりましたが、この写真は改造前
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 この機関車は、明治33(1900)年アメリカのスケネクタディで製作されたもので、8両が作られました。当時日本で最大級の5フィート(1524mm)の動輪を持ち、同じ軸配置を持つ当時の日本の機関車では、関西鉄道の6500の単式時に次ぐ最高性能の機関車で、6500の複式時はこの機関車よりかなり引張力が小さいので、実質的に当時の最高性能の機関車と呼んで差支えありません。
 官鉄の6400はこれより大きく見えますが、ボイラの実質的な大きさはほとんど変わらず、この機関車は使用圧力が高い分、高性能になっています。
 より大型の6600や後の制式機6700よりもシリンダ引張力が大きいのは意外ですね。

 私は、この機関車と今回紹介した事故の件で、ちょっと思うことがあります。

 この事故の年に、この機関車を元に兵庫工場で山陽鉄道初の完全新製として17形が4両作られました、後の6100形です。
6110l

 機関車本体は6120と比べて、煙突と運転室の窓くらいしか違いがありませんが、炭水車は形が違います。
この時すでに前照灯の受けに特徴が表れてますね。
この後、少し形態を変えてさらに4両製造されます。

 ここから私の想像なんですが・・・
正面衝突で16形2両が大きく破損したわけですが、機関車の数が減っていないので、今のように簡単に廃車にしたりせず、兵庫工場で復旧工事をしたようです。
 破損の状態は、鉄道時報の記事でははっきりとはしませんが、双方とも前部デッキはかなり破損し、シリンダから前の台枠も破損したと思われ、先台車も大きく被害を受けたようです、92号は運転室や炭水車もかなり破損したようで、台枠後部も破損した可能性があります。
 兵庫工場ではこれらの個所を新製部品を作って復旧することになりますが、事故車の補修部品を余分に4両分(後に更に4両追加)製造し、その他の部品も4両分作って機関車を4両新製したんじゃないかと思うんですよ。という訳で、この事故が兵庫工場でこの後多くの機関車を新造するきっかけになったんじゃないかと思ったりするんです。

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