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2017年1月

2017年1月29日 (日)

全盛期の山陽鉄道 3

36年1月20日の時刻改正でスピードアップをした山陽鉄道は、わずか半年足らずの7月1日に再度の時刻改正をして、最急行は従来停車していた4駅を通過としたのに、下り11時間55分、上り11時間31分にスピードダウンし、さらに編成両数もボギー車7両から6両に減車されます。

わずかな期間に改正を行い、減車とスピードダウンをするというのは、この期間に速度が速すぎた等の何かトラブルがあったんではないかと考える事が出来ますが、鉄道史や年表等を見ても、特にトラブルの記述はなかったんです。
長船友則著「山陽鉄道物語」は山陽鉄道についての最高の研究書と言えると思いますが、長船氏も同書の中で「一体なにがあったのであろうか」と書かれています。

そこで登場したのが、鉄道史料148号の井原実氏の寄稿「山陽鉄道 明治36年1月20日 時刻改正」です。
この記事には、36年4月4日、万富駅における事故の詳細が記されています、出典は鉄道時報4月11日号

以下、そこから抜き書きします。

「山陽鉄道列車衝突事件」
 去る4日1時12分山陽鉄道線万富駅に於いて305列車(最急行)と110列車(貨物)と衝突したる事件あり。  -中略-

 客車は同日午前7時0分京都駅を発したる例の馬関直行の大急行列車にして、92号機関車を先頭とし次に機関車付属タンク車(石炭及び用水タンク車)、次に発電車、郵便車、3等車、2,3等混合車、3等車、1等車2等車、次にブレーキを付属せる3等車を後部とし居たり。
 大阪駅よりは吉原地方局長の一行も後部の2等車に乗り込み居たるが、同列車が京都を発し大阪に着すまでの間において、既に何か故障ありたる由にて、それがため大阪発時間は平常ならば午前9時20分に発すべきを約20分を遅発して、9時40分頃に発車したり。
 その後前記万富駅に至るまで差したる故障もなく、さすがに最急行のとなれば線路の屈曲せる個所即ちカーブの所にさしかかる度毎に、脱線せんかと思わるる許りに左右に振動したり。
 これは平素ならば良し最急行なればとて斯ることなき由なれども、時間遅れたるを以て其回復を計り、平素よりも幾分の速力を加えて馳行し居りたるためなりと。
 さて、右の下り列車が万富駅に近きたる際も、同駅は停車駅にあらざるを以て別に減速もせず進行し、しかも同駅の東方は線路屈曲し其間に山脈ありて山隠れとなり居れるを以て、十数町を隔てたる東方よりは同停車場を見透す能わず、加うるに其カーブの個所より停車場に向って幾分の勾配を以て低下せるを以て、列車がカーブを出でて停車場内近くに至りし際は下り坂のために最急行の速力に一層の惰力を加えて進行したるが常。

 停車場外に掲げある信号、無事を示し居たりしに、さらに4町許りを進行して場内に進みしに、場内の信号標は危険の信号を掲げ居るのみならず、
 上り線路即ち北方のプラットホームには昨今岡山兵庫駅間の不定期列車に使用せられ居る95号機関車が貨車16両と石炭を積載せるトロック3両を連ねて、同日午前11時40分岡山駅を発し12時40分万富駅に着し、最急行の下り列車の来着を待ちつついるを認めたり。
 然れども下り列車は尚前方にポイントありて、夫より上り列車の線路と行違いとなり南方プラットホームに沿いて急行するを普通とせるがゆえ、当時下り列車の運転士も上り列車の運転士も例の如く懸念せざりしに。

 下り列車はポイントの所に至りしに、これはそもそも如何に機関車は上り線路を直行し、停車中の貨車を真向に目がけて進行したりしより、下り列車の運転士柴野徳太郎氏はポイントの整理しあらずとは思いかけざることなれば大いに驚き、直ちに停車せしめんとてブレーキのハンドルに力を込めてエイヤとばかりに一廻し廻したれども、最大急行の速力なれば何かは以てたまるべき。
 上り列車の機関車に百雷の響きをなして衝突したれば、さしもに堅牢なる機関車前部のボギーは剥ぎ取らるる如く離され、厚さ3吋ある前部のデッキ其他の付属品は上下両列車とも微塵に壊されたり。
 かくて衝突の一刹那下り列車の機関車は其反動を以て後部に連結せる自己のタンク車に衝突したるを以てタンク車も破壊されて、鉄板破れ漏水は洪水の如く線路に溢れ、また山鉄線の機関運転視察として火夫と共に機関車に乗込居たる、関西鉄道亀山駅機関庫係員樋口尚賢(22)は、機関車とタンク車との間に挟まれ即死を遂げたり。
 而して次なる発電車も是亦微塵に壊され、郵便物を満載せる郵便車は、同じくその余響を以て同車の前方1間ばかりは全部破壊されたるのみか、郵便車の車底は悉皆微塵となり車輪は線路外に飛散し、しかも同車の後部に連結せる3等車の屋上に殆んど車底を載すほど崩れかかりたり、ただ不思議なるは常時郵便係員は都合6名なりしが、何れも中央の事務室にて執務中なりしも、同車の前後が郵便庫となり居りて柔らかき郵便物の弾力にて車の中央部を安全に保つを得たり。
 而して1等車の振動はさしたることなかりしも・・・    -中略-
 又一方衝突されたる上り貨車の機関車は、衝突の反動と共に機関車に付属せる前部のボギーは衝突の個所に破壊の儘置去りとなり、連結せる19両の貨車と共に後方に突き返され、是亦機関車の前部のデッキ其の他を破壊したるのみならず、醤油を積みたる貨車は・・・    -中略-
 上り95号機関車の運転士戸川久氏は、衝突の際反動により後退せし時、臨機の処置を以て成るべく反動のため後車の破壊を避けんとて、機関車のブレーキにより後退を中止せんとせしも能わざりしと。
 尚、同貨車後部のブレーキに執務し居たる車掌佐藤萬亀三郎氏は、車壁に面部を打ち当てて負傷したり。
 かくて衝突後下り列車の乗客は・・・   -後略

句読点と現代の文字に変更しましたが、明らかな間違い(ブレキー等)以外、文は元のままとしています。

要約しますと、36年4月4日、最急行305列車は京都を定時発車した後、トラブルのせいで大阪で20分延着、その後はトラブルもなく遅延解消に向けて通常より高速での運転を行っていた。
 一方単線のために、上り貨物列車は12:40に万富駅に到着後、交換のために下り305列車を待っていた。
 万富駅東方はブラインドカーブで下り勾配、しかも遠方信号は青、通過駅なので減速せずに駅に向かうと、場内信号が赤で、ポイントは切り替わってなかったが、時すでに遅し。
 ブレーキハンドルを回したとあるが、実際は真空ブレーキのエジェクタを操作して、さらに手ブレーキも廻したと思われる。
 上り貨物列車は停まっていたので、正面衝突とはいえ、死者は一人と奇跡のような事故で、郵便車の職員は車両の前後が大きく破壊されたのに中央部に居たため無事だった。
 最急行305列車の機関車は前部が大破して先台車は外れたようだ、炭水車は機関車に衝突して大きく破壊したようで、次の蓄電池車、文中には発電車とあるが、列車電灯初期に蓄電池と共に実験で作った発電車は、この時点で無くなっていた。蓄電池車は粉砕し、次の郵便車は機関車側が1.8m程度が破損し、後部は次の3等車に乗りかかるようになっていたようですが、乗りかかられた3等車の被害の記述はなし。後部に連結された1等車や食堂の食器が壊れたとかの様子が書かれているが、省略した。
 貨物110列車の方は、機関車前部は大破し、先台車も破壊した。
貨車は積み荷の醤油樽が破壊されてひどい状態、米や銅などを積載したものは、側壁が破損した。

 原因は、万富駅東側のポイントが切り替わっていなかった事と、遠方信号が青を現示していたことですね。
 いくら見通しが悪くても、遠方信号が赤なら、いくら急いでても、305列車は駅の手前で停止できます。
 貨物110列車は12:40に到着し、事故は1時12分で、305列車は遅れていて32分も時間があったのに、何らの防護処置も出来なかったのか謎ですね。

 死者も出て、列車同士の衝突という、これほどの事故が鉄道史に残っていないのが不思議ですね。

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2017年1月26日 (木)

全盛期の山陽鉄道 2

山陽鉄道、ここからが本題です。

明治34年、馬関(翌年下関と改称)まで開通し、神戸-下関間を全通させた山陽鉄道は、直後に時刻改正をし、最急行も下関まで到達しました。神戸-下関間の所要時間は12時間35分を要しましたが、当時は日本一の速さを誇ったものです。

その次に満を持した大きな時刻改正をするために35年12月24,26日に神戸-下関間で試運転を行いました。当時の新聞によると、神戸-下関間を11時間15分で運転する目的で、直線区間の最高速度は60マイル/h(96.6km/h)に達したそうです。

その試験結果を踏まえて、満を持して時刻改正したのが36年1月20日だったんです。

この時の改正の目玉は、最急行の高速化。
京都発の最急行の神戸-下関間の運転時間は、下りは11時間30分、上りは11時間20分となりました。

では、その内訳です、現在の普通列車を乗り継いでいった場合も併記します。
先ずは下り
Photo

上り
Photo_2

 現在、快速等を使えばもっと早いのですが、できるだけ近い時間に出発する普通列車を最短で乗り継いでこのようになりました。思ったほどの差がありませんね。

上り広島‐糸崎間には、いわゆる瀬野八と呼ばれる難所があり、勾配用の機関車に付け替えますが、瀬野‐八本松10.6kmの区間で、22.6‰勾配に300mカーブが連続する区間を32分、19.9km/hで走破します、
 列車全体で驚くべきは、機関車を4回も交換して、交換駅の停車時間は最短6分と驚異的な交換時間、途中で給水はしないのか、他の停車時間も非常に短いです。
 また、この区間の大方はまだ単線であることも考慮に入れると、この運転時間を達成するのにどれほどの苦労があったかと想像します。

その、最も大変な状態の時に最急行が事故を起こしたんです。

以下、次回

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2017年1月23日 (月)

全盛期の山陽鉄道 1

このところ、更新が滞ってますねぇ。

年末ごろからちょっとはまっているテーマが「山陽鉄道」

鉄道史料148号に、井原実氏の寄稿「山陽鉄道 明治36年1月20日 時刻改正」、
そして、151号には、「山陽鉄道 明治36年7月1日 時刻改正」が掲載されました。

この期間を見て「お!!!」と思った人は少ないでしょうねぇ。
けど、この36年1月20日から7月1日までが、正に山陽鉄道の全盛期と呼んでいい時代なんですよ。

21年の開業当初から本州発の列車トイレを設置し、早々に全車両(貨車は貫通管のみ)に真空ブレーキの装備をし、30年からの列車電灯採用、33年には日本初の蒸気暖房と、次々と新機軸を取り入れてきた山陽鉄道は、
運用面でも27年から急行列車を設定しました。28年には官鉄の京都まで乗り入れを果たし、32年三田尻(現防府)まで開通の時点で、後の特急に相当する「最急行」が設定され、同じ32年には日本初で国産の食堂車を採用し、翌33年に最初の寝台車を投入しました。
官鉄に比べてはるかに安い料金の簡易式の二等寝台や、座席料金のままで利用できる三等寝台(と称する)、それに座敷のある客車も出てきました、もちろんこれらも日本最初です。
明治34年に馬関(現下関)まで全通して当初の目的を果たし、充実した日々が始まりました。

初回は、これらの車両たちを紹介しようと思います。

32年、最初の食堂車、一等室と合造です。国有後の形式ホイシ9180
187_2
食堂は、当初は定員10人の大テーブルだったものを13人の個別席に改造しています。
左は一等室、今で言うロングシートで、3人おきにひじ掛けがある。

車内
L_2
左は製造当初の大テーブルの食堂、右は別の形式ですが、一等室は同様と思います。

34年製、一等寝台食堂車、国有後の形式イネシ9080、山陽鉄道案内(復刻)よりL

一等寝台食堂車の構造図。005_022_p020l
右から調理室、食堂(定員8)、一等寝室、車端上部は便所、下部は乗務員室、物置の順です。
以前から問題とされる一等寝室の表示方法は、右半分が夜、上側は上段寝台、下側は下段寝台、左半分が昼の状態です。

室内、どちらの写真も、片側が夜で、反対側は昼の状態。
Photo

36年製、二等寝台車、国有後の形式ロネ9130
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二等寝台車は2形式8両のみ。
これの椅子の構造は、この資料「帝国鉄道協会会報11巻」に略図があり、研究者の間で有名ですが、これ以外何も情報がなくてよくわからなかったんです。
Photo_2

図は、上段下段共にこのような構造と書かれています。

ところが先日、私は所有の書籍等をしらみつぶしに探していたところ、写真が見つかったんです。
4
下段は向かって右側が夜の状態、上段は左が夜の状態です。
下段はまさに図の状態ですね、上段は向こうの方ですが、舟型寝台の上に何かあります、これは図のような背もたれの様にも見えます。

そこで、形式図を元に、実際の寸法を推定して図を書いてみました。
9130
客室部分に13組の寝台を書いたところ、一人分の長さが1650mm程度確保できることが分かりました。これなら、当時の日本人の身長なら問題なさそうですね。
上段は形式図の断面から高さを測ったところ、下段と同じもので成り立つことが分かりました。

36年製、三等寝台と称されるもの、資料はこの形式図のみ
223
鉄道時報では、背もたれを引き出すと、60度程度に傾き、枕も引き出せると書いています。
これは、一種のリクライニングシートのようになるのかもしれません、特別料金を取らないというのは良心的ですねぇ。
ちなみに、一般の三等車の写真を載せておきます。
901l

時刻改正関係等、続きは次回。

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2017年1月 1日 (日)

初夢

新年明けましておめでとうございます。

2015年に発症した網膜症が良くならず、左目は工作時には使えない状態での1年でしたが、何とか工作を続けていますが、目は疲れやすく、仕事が忙しい時などは、夜の工作は無理なことが多くて、夏以降はあまり工作は進みませんでした。

とはいえ、川崎のCタンク等の工作や実物研究等、非常に面白いので、目が良い時に集中してやっていこうと思います。

さて、初夢の話題。

12月のはじめ、「コンちゃんの模型日誌」で、φ23mmの動輪があるというのを知り、ちょうど、ゆうえんさんが作ってTMSの12月号に載った自由形のテンホイラー8760を見て、大正形の自由形やりたいなぁ~って思っていたこともあって、「アメリカンかアトランティックを作ったらおもろそう」ってことで、φ23mmの動輪を2軸分譲って頂きました。
Rimg0002l_2

アメリカンの案
基本は6700か6760になるかと思いますが、大好きな6700をベースにして、動輪を大きくして考えを進めていきました。

6700のベースはドイツプロイセンの4-4-0のP4辺りだと思いますが、
今回のは動輪が大きいS3を元にしました。
Eisenbahn_journal_s3

図面はこれ
S3_70_2
計画中、テンダは8700のボギーです。
6900_l

緑が6700ですが、動輪が大きくなったため、ボイラ中心を8620と同等の高さまで上げました。8620のボイラ周りも重ねていろいろと検討しました。

その結果、こんな感じになりました。
ボイラは過熱式、蒸気ドームは第2缶胴です。
6900_2b_l

うーん、6700と変わらんなぁ・・・・・

そこで、従輪を足してアトランティック。
R.F.トレビシックの弟子は太田吉松と森彦三が有名ですが、トレビシックの帰国後、実権を握ったのは森で、鉄道国有法施行後の標準機関車の計画を立てた時の旅客用機関車は、森が推奨した軸配置2B1のアトランティックで、後に実権が島安次郎に替わって、彼の主義により、2Bのアメリカンが採用されて6700となりました。

この時に、実権が島に替わらず、森の設計が採用されていたら・・・
当時の日本の機関車は、お手本をドイツに習ったのは明白ですが、このアトランティックもドイツのバイエルンの機関車に習ったとしたら・・・
私の好みでチョイス。後の14型、S2/5です。
Bayerische_s_25

恰好は、好みですねぇ、けど、6600よりはかなり良い感じだと思うんですよ。

これを真似するわけにもいきませんが、6700のイメージを残して、こんな感じになりました。
6900_2b1l

従輪を追加してボイラの煙管を長くしました。大分イメージが変わりますねぇ。
火室は、動輪の後ろに置きたいところですが、動輪が大きいため動輪から後ろがかなり長くなって恰好悪くなるし、実物的には転車台や列車有効長の問題もあって短くしたいので、結局台枠内になりました。図では前端を第2動輪の後ろにしたため、9600程度とかなり短いのですが、実際はもう少し煮詰めて第2動輪より前まで伸ばさなくてはいけませんね。
その場合でも煙管が長いためボイラの性能は8620等より良くて、シリンダの直径を少し大きくできそうです。

とまれ、アトランティックとしてそれほど恰好は悪くないので、作るならこれで行きます。

なお、動輪直径1840mmは、後の南アフリカの16Eの1810mmより大きく、狭軌世界一の直径になります。
計算上、300rpmでの最高速度は104km/hとなりますが、動輪を測ったところストロークは660mmくらいで、C62等と同じですので、C62の最高速度の記録の129km/hと同じ回転まで上げられるとすれば、この機関車は136km/hとなります。

川崎のCタンクがあるので、工作は先になるかもしれませんが、楽しそうですねぇ。

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