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2013年11月 1日 (金)

一枚の写真から 2 客車編 ある客車

友人から、客車も載せろってリクエストがありましたので、今回は客車の話題です。

この写真、オークションで見つけた時は出入台妻寄りの手すりから、簡単に明治39年から42年にかけて量産された、所謂「オイラン型」の事故車の写真だと思いました。

L

明治の客車のこれだけのアップは非常に珍しいのでこれだけでも貴重なんですが、

この事故から何かたどれるかと思い、沖田祐作さんの最新DVDに入っている「三代事故録」を丹念に調べたところ、何と同じ写真が載っているのを見つけました。

沖田さんの著作は、どれも人生を賭けたであろう労作で、最新版は機関車表、機関車製造台帳、三代事故録の3冊を全部まとめ、多くの写真や図面を盛り込んだもので、ページ数が多すぎて、とても印刷できないと今回からDVDになった物です。

今回DVDになって写真が入っていたからこそ、この写真の事が分かったわけで、沖田さんには大変感謝です。

なお、近々、ネコからムックとして発刊されるそうです。

著作の写真は「国鉄重大運転事故」という資料からの転載で、それほど鮮明ではありませんが、私のは、その原稿の写真のようです。

その本の記事はまさに驚天動地!!非常に有名な事故の時の客車だったのです。

それは・・・

1930年4月6日久大本線小野屋~鬼瀬間で起こりました。ここでピンと来た人はかなりの・・・

そう、世にも珍しい機関車のボイラー破裂事故の時の機関車次位に連結された客車だったのです。

この客車は2,3等合造車のコロハフ1702、

機関車は8550の8610号、溶栓が溶けた直後に火室の天井板がステーから外れ、ステーの穴から噴出した蒸気が、煙室から煙室戸を突き破って、この客車貫通路から吹き込み、中央の2,3等の仕切り扉をも突き破って2等室をも破壊した。

バック運転だったのが不幸で、22人が死亡した大惨事となりました。

写真の左に見える煙室先端とステイはその事故機関車と思われる。

このコロハフ1702なる客車、「オイラン型」ではなく、官鉄で明治30年から39年にかけて作られた、明治を代表するボギー客車で、明治時代に最も多く作られた一群です。

ダブルルーフですが、屋根が浅いのが特徴で、当初の側板は箱型と同様のモールディング、後にほとんどの車が羽目板に改造されています、デッキは当初はオープンタイプで後に妻板と側の扉が付いた物になりましたが、改造したものやそのままの物もあり、多種多様です。

この車の形式図は昭和3年版が最終で、この時期にこのタイプの2,3等合造車は珍しく、たった4両です。

1700

この客車ではないのですが、以前、この一党の客車の研究をしたことがあります。この図はその時に模型化を考えて書いた物でこの客車とは車掌室が有るかないか程度の差と考えてよい物だと思います。

5700

上側の図は反対サイドで、羽目板の表現は省略してあります、色んなタイプがあるので、デッキ部はオープンタイプとクローズドタイプの両方を書いています。

この車は妻板付ですが、元々の物か改造された物かは分かりません、ただ、問題の手摺は、他の物とは違うので、「オイラン型」と同様の物に付け替えたのかも知れません。

この一群の客車に興味がある方で、私が書いた図面でも見てみようと思われる方は、メールを頂けましたらお送りいたします。

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一枚の写真から 客車編」カテゴリの記事

コメント

当時の新聞の写真と同じアングルでガラスの破損状況も同一なので間違いはありません。新聞には煙室扉が吹き飛んだ8610も掲載されています。その煙室扉は亡き母の話では不明になったと聞きました。

投稿: 大湯鉄道沿線住民 | 2014年1月 2日 (木) 23時41分

大湯鉄道沿線住民様
いつも見ていただいてありがとうございます。
この事故に関しては、佐々木冨泰/網谷りょういち著「事故の鉄道史」に詳しく解説されております、図書館等にあるのではないかと思います。一読をお勧めします。
この本の178ページに煙室戸が吹き飛んだ機関車の写真もありますが、こちらは鉄道時報の写真なので違うかもしれませんね。

投稿: クラーケン | 2014年1月 3日 (金) 03時58分

クラーケン様
早速の返答ありがとうございます。
確認したところ178頁「事故の鉄道史」の写真とは異なっていました。
当時の新聞は「大分新聞1930年4月7日(朝刊)2頁で、現在は大分県立図書館に所蔵されており、マイクロフィルムか電子データで閲覧できます。
事故時は、近くの寺の雨戸を担架に使ったとも亡くなった僧侶から聞いたことがあります。

投稿: 大湯鉄道沿線住民 | 2014年1月 3日 (金) 09時46分

大湯鉄道沿線住民様
貴重な情報ありがとうございます。
早速大分県立図書館にアクセスしましたが、見出しのみで、画像のダウンロードは出来ないようですが、問い合わせてみようと思います。

投稿: クラーケン | 2014年1月 3日 (金) 12時40分

クラーケン様
大変すばらしいですね。感服いたします。
大湯鉄道沿線住民様
これからぜひ、そのお力をお貸し願います。
地域に残せる歴史資料にまとめましょう。

投稿: 大湯鉄道物語 | 2014年2月 2日 (日) 20時55分

大湯鉄道物語様
大湯鉄道100周年プロジェクト!大変期待しております。

投稿: クラーケン | 2014年2月 2日 (日) 21時30分

8610号ですが、ふつう火室天井板が破裂するとボイラーが後部より跳ね上がるか、少なくとも焚口戸を吹き飛ばすかするのですが、同機ではそれらが起こらなかったことより、火室内への蒸気噴出は比較的少量かつ継続的で、発生した水生ガスが後進力行中の通風力により煙室に流れ、堆積シンダーにより着火・爆発し、煙室扉を吹き飛ばしたとの考えを持っております
(線路両側の草むらが焦げてたとの証言あり)

投稿: たかひろ | 2014年7月 6日 (日) 23時00分

たかひろ様
ご意見ありがとうございます。
この事故の詳細は「事故の鉄道史」によりましたが、その記述でも水性ガス爆発との見解で、私は化学の分野は暗いので独自の考えは持っておりませんが、その記述に疑問点は思い当たらず、たかひろ様も仰る原因と考えるのが自然のように感じますね。

投稿: クラーケン | 2014年7月 6日 (日) 23時46分

この近所にお住まいの方に偶然話を聞きました。

舅が消防団で、事故処理に参加した。
場所はお地蔵さんのあたりだが、(車から見えます)それは事故のために祀られたものではなく昔からあるもの。
慰霊碑や、定期的な供養は行われていない。そのせいか交通死亡事故が多い。とのことでした。

ひどい事故なのに石碑等もないのはどうしてだろうと不思議なのです。

投稿: さちこ | 2015年3月30日 (月) 04時46分

さちこ様
私はそういうことはあまり気にしないほうなのですが、
石碑は遺族団体や責任団体等が建てることが多く、この事故は鉄道省が建てるとは思えず、遺族団体もそういう話にならなかったということなんでしょうか。

投稿: クラーケン | 2015年3月30日 (月) 10時40分

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